手記

以前に伝記は事実を美化していて、とても信用できないと書いた。小学生の頃、図書館は伝記で溢れていた。でも、何だか変?都合の良い所を、美化して書いていると感じた。伝記とは第三者が資料や聞き取りでデータを集めて、それを組み合わせて書いた本。多くのデータの中から、第三者が自分で取捨選択して、いわゆる美談を作り上げたものと感じていた。中には、重厚で客観的な本もあるので、これはあくまで一般論である。
手記は本人が回想的に勝手に書いた本。人間の記憶とは、都合の悪い記憶は薄れ、都合の良い記憶は強く残る。ギャンブルでも勝った記憶は残るが、負けた記憶はほとんど残らない。残った記憶でも、自分の都合の良い解釈で、どうしても歪められてしまう。その意味でも、手記は伝記より信用できない。伝記の内容の60%、手記の90%は嘘と、私は勝手に解釈している。
手記はノンフィクションではなく、フィクションの世界と考えるべきだ。問題は手記を出す目的である。目的は1つしかない。自分の為。自分を正当化するか、自慢するか、自虐的で同情を買うか、そのあたりである。手記も1つの参考意見としては、意味があるかもしれないが、私はお金を出してまで、著者の懐に協力する気にはなれない。図書館で購入して、多くの人が読むのは悪い方法ではないかも。
先日読んだ「家族という病」。この本は手記である。放置していた本を娘も読んだようで、「両親の介護の経験なく、兄の死も事後報告。家族を語る資格はないね」と。私は単なるタイトルの誤りだと思っている。「私という病」という内容。まあ、手記は「どこに嘘があるか?」と考えながら読むのが、一番面白いと思うのだが。